<就職できなければ生きる価値なし!?>
就活。今思い出すだけでも嫌気がさす。世間知らずでぼんやりと中学校の美術の先生になろうと思って過ごしていた私は就活で苦戦したタイプ。と言っても、就職超氷河期にちゃんと内定をもらって企業に就職したのでラッキーなのだが、あの時感じた精神的苦痛は相当なものだった。なぜなら、真面目過ぎるがゆえに「就職できなければ人生終わり」本気でそう思っていたからだ。今回は、エントリーシートの意味もOG訪問の意味も知らなかった私の就活物語を紹介しよう。
目次
9年越しの夢への迷い
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中学1年生から大学で就活を始めるまで、私は中学校の美術教師になろうと思っていた。
中学時代の美術教師がちょっと変わった先生で彼女に憧れたからだ。
彼女は、不良から優等生までいろんな生徒から好かれていて、毎日とても楽しそうだった。
小さいころから工作や絵を描くことが好きで、美術が得意だった私にとっては、もってこいの職業だと思っていた。
そんな私は、「【第8幕】こうして私は優等生から転落した。受験の恐怖。」で語った通り、残念ながら教育学部のある大学には入ることはできなかった。
しかし、東京家政大学卒業時に中学と高校の美術教諭の免許を取得した。
大学3年生の私は、母校での教育実習や特別支援学校(養護学校)、社会福祉施(老人ホーム)での研修を終え、諸々の授業を無事に終えるめども経ち、あとは教員採用試験の勉強に本腰を入れるだけ!となった。
しかしそんな時、私は自分の人生に思い悩むこととなる。
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教師を目指すことへの3つの迷い
教員採用試験の勉強に本腰を入れなくてはいけなくなった時期、私の頭にはたびたびこの言葉が浮かぶようになる。
「本当にこのまま教師を目指すのか」
教師を目指すことに迷いだしたのには3つの理由がある。
1つ目は、教員採用試験に受かって教師になるまでに3~5年浪人が当たり前だったこと。
私が教員試験を受けようと思っていた時期は、教員の空き枠のない時代だった。特に私は、1校に1人か2人という美術の教員を目指していたのでなおさら狭き門であった。
正直に言ってしまえば、大学で積み重ねてきた教職の授業はどれも「くだらない」と感じるもので、この勉強をこれから先3~5年も続けなくてはいけないのかと思うとうんざりした。
2つ目は、「世間を知らないまま教師になっていいのか?」と疑問に感じてしまったこと。
大学を卒業したばかりの私が、これから先社会に出ていく子どもたちに、何を教えられるのだろう?と真剣に思い悩むようになったのだ。
学校という場所は、ただ単に教科の知識を覚える場所ではなく、将来社会人としてやっていけるような考え方までの習得する場所だと考えていた私は、教師もしっかりリアルな社会について教えられるべきだと思っていたのだ。
3つ目は、教師にも派閥があるということを知ってしまったこと。
小学校時代から学校の先生たちとは仲が良かった私も、これまで出会ってきた教師たちに何の疑問も抱かず育ったわけではなかった。
自分の感情に任せて生徒を叱るというより怒る教師の態度や、暴力、えこひいき。そんな現実を目の前で見続けてきた。私はそんな教師にはならない!という思いを持ちながら教師を目指していたが、教育実習に行き、教師の裏の顔を実際に見て、私の夢の実現は難しいと感じるようになったのだ。
教師にも派閥があり、職員室内は以外にも殺伐としていた。意外と体育会系的な要素もあり、非常に生き苦しい狭い社会であるとも感じてしまったのだ。
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教師を目指すことをあきらめ1番の理由
3つの理由をお伝えしたが教師を目指すことを辞めた一番の理由は、「世間を知らないまま教師になっていいのか?」という疑問がぬぐえなかったからであった。
社会経験もないまま、たった20数年の人生経験の中いきなり生徒達から先生と呼ばれることが疑問だった。
そして、思春期という多感でいろんな思いを抱え、いろんな家庭環境の中に日々生きる生徒に「世間も知らない私に何が伝えられるのだろう」と思い悩んでしまったのだ。
そんな私は最終的に「社会に出てから、まだ教師をした異と思った時に目指せばいい」そう思ったのだった。
これを読んでいるあなたが、もしも教師だったとしたら大変申し訳ないのだが、私はこの頃から学生からすぐに教師になる人は「ちょっと感覚が変わった人」という認識を持っている。
多くの教師が、大学に通わせてくれるような経済力のある家庭で育ち、死にたいと思うような挫折経験もなく、お金がなくて家賃が払えるのかという不安や恐怖も知らないまま20~23歳で「先生」と呼ばれるのだ。
そして、自分が経験してきた小さな世界で生徒の思いや人生をジャッジ(判断)し、未来ある子どもの心を傷つけ人生を狂わせることもある。
すべての教師がそうだという訳ではないが、そういう教師の方が多いのは事実だと思うのだ。
さらに、教師本人さえ自分の本当の夢なのかもわからないまま教師になり、生徒たちに「夢を持て」何てことを言っていると考えたら、本当に良くそんな嘘がつけると感心してしまう。
ウソがつけない私には、そんな教師になることが許せなかった。
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自由を与えられたからこその苦悩 何も選べない私
さて、教員採用試験の受験を取りやめた私は、急に他の選択肢を見つけなくてはいけなくなった。
中学1年から換算すれば約9年、美術教師を目指していたので、この頃は本当に他に何を選んでいったらいいのかめちゃくちゃ悩んだ。
この時初めて、「選択肢が何もないなかで自由に選べ」と言われると「何も選べない自分」がいることに愕然とする。
ずっと厳しい両親の元で過ごす中、あんなに自由を追い求めていたのに、「自由にしてもいいよ」と言われたら、何をしたらいいのかわからないのだ。
就活超氷河期の就職活動スタート
どんな仕事をしたいのかわからないと言っても時間は待ってくれない。
企業への就職へとと切り替えた私の就職活動が始まる。
私が就活をしていた2002年というのは、就活超氷河期と呼ばれる時代で就活生みんなが苦戦した時代だった。
さらに、就活のお作法ややり方なんて全く知らない。
OB訪問の意味もやり方も分からず、エントリーシートもいったい何なのかわからない。
そして、美術系の学部にいた私の周りには就活を真剣に考えてる子が少ないという事実。
そんな状態から私の就活は始まった。
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就職できなければ生きる価値なし
就活中の私はかなり追い詰められていた。
当時の私には「就職できなければ生きる価値なし」という思いが強くあった。
だから、毎日毎日「新卒で就職できなければ人生が終わる」そんな強迫観念に襲われながら必死に就活をしていた。
今なら、そんなに思いつめることはないよと言ってあげたいが、長女の真面目気質が極端に表れていたのだろう。
そんな恐怖感の元、何時間もパソコンに向かいリクナビでありとあらゆる企業について検索をしていた。
私が就活真っ只中の2002年と言うのは、現在のようなスマホなんてない。
画面も小さく表示できる文字数も非常に少ない白黒画面の携帯電話(ガラケー)からカラーになったかならないかくらいの時代である。
そして、インターネットもまだまだ通信速度が遅く、サイト表示まで何秒も待つなんてこともザラだったのだ。
現代っ子には想像を絶する環境であろう。
思い通りにならない就活、不安な毎日
さて、就活初期に私が目指したのは「雑貨デザイナー」だった。
昔から雑貨が好きで大学でグラフィックデザインも学んでいたことから、「雑貨デザイナーを目指そう!」そう決めて、日々募集企業を探し、ポートフォリオ(作品集)の制作に励んでいた。
リクナビだけでは募集が見つからず、興味を持った雑貨店や雑貨部門がある企業に電話をかけるというアナログなこともしていた。
「雑貨デザイナーって楽しそう!」なんてお気楽な気持ちでいたが、教師になるより大変なのではないかと思うほど募集がない!
デザイナーを募集してる企業を見つけても、採用人数若干名(1名くらいの意味)の募集に、何千人と言う人が応募する。
見つけた募集に対して応募をしても、書類選考で落ちてしまう。
「就職できなければ生きる価値なし、人生終わりだ」そんな自分で作り上げたルールに落ち潰されそうになりながら、夜な夜な睡眠時間を削ってリクナビ検索をする日々に不安が募っていった。
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現場の真実を知って撃沈
書類選考も通らない私は、どうしたらいいか悩んだ結果、ネットで見つけた雑貨デザイナーさんにどうしたらなれるのかダメ元で質問メールを送ることにした。
当時のメールが残っていないのが残念でならないのだが、問い合わせた雑貨デザイナーさんから返事が来たのだった。
彼女は普段からいろんな質問をもらうらしいのだが、普段は答える価値もないようなまとまってない質問しか来ないけど、珍しく具体的で答えやすい質問だったので返事をしたと書いてあった。
彼女からの返事にはこんなことが書いてあった。
「はっきり言って雑貨デザイナーは即戦力にならなければ採用されません。ポートフォーリオ(作品集)も大学の課題なんかでは話にならず、その雑貨店に合わせたテイストで描かれたイラストかどうかを見る」
この返事を見て、撃沈する。
いつもの「何だかできる気がする!」という訳の分からない自信だけで頑張っていた自分に赤面する。
デザイナーの彼女の言ってることはごもっとも。
さらに私が雑貨デザイナーという1つの席を争う敵は、美大生!や美術の専門学校生という事実にさえ目を向けていなかった事に気がつく。
雑貨デザイナーをあきらめる
本当に絵が好きな人は、自分でかわいいキャラクターなどを日々描いてグッズを販売しているくらいだ。
かくいう私は、絵は好きだが毎日描き続けているわけではないし、大学で課題を出されればそれに対して何か作品をつくるという程度。
つくる作品のレベルもとてもじゃないけど売れるレベルではない。
就職すれば「デザイナーとして育ててもらえる!」そんな甘いことを考えていたのだ。
現実を突きつけられ自分の実力不足を思い知った私だが、またまた変なプライドが邪魔をして、しばらくそんな自分を認めることができなかった。
その後もしばらく雑貨デザイナーを目指して応募するも、やはり一次選考すら通らない。
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就職することを1番の目的に変更
さて、さっさと捨てればいいプライドにしがみついている間に、時は刻一刻と流れていった。
あるときから、このまま採用人数の少ない雑貨デザイナーを目指していたら就職できないぞ。。そんな焦りが大きくなる。
これまでの人生で「何かをあきらめることは、いけないこと。自分に負けること。」そんな思いが強かった私。
そんな私にとって、一度掲げた目標を受からないからという理由だけで取り下げるのはなかなか勇気が必要だった。
当時の私は、「就職できなければ生きる価値なし」という呪いにかかっていたので、背に腹は代えられず「よし、採用人数の多き企業をターゲットにしよう!」と目標を「就職すること」に変え、就活をしていくことにする。
当時の私にとって採用人数が多いは100名~300名くらいを指し、そうなると小売業がターゲットとなる。
あまり積極的に遊ぶこともせず、アルバイトも小僧寿しと託児所くらいしかしたことがなかった私は、世間知らずで、世の中の仕組みもわからなければ、みんなが知ってるような企業も知らなかった。
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内定するために媚びることも辞さない
「就職すること」を目標に定めなおした私は、知ってる会社の中で興味のもてる職種に片っ端からエントリーしていった。
と言っても、人さまより知ってる企業が少ないのでめちゃめちゃ範囲が狭い中での就活となる。
ターゲットを変えたことによって、筆記試験に進むことができるようになるが、筆記試験と一緒に書かされる企業をどう思うかみたいなアンケートに上から目線ことなどを書いていたら、落とされることが続いた。(どこまでもバカである。。)
その経験から、「ああ。就活って結構媚びないといけないんだなー」そう思うようになり、受かることを目標にするようになっていった。
これ以降は内定をもらえるようになり、最終的に私は運よく大学4年生の5月には一番行ってみたいと思えた企業の内定をもらい、無事に就活を終える。
最終的な就職先
私が内定をもらい就職したのは、当時勢いがあり注目されていた100円ショップであった。
この100円ショップは、入社後に「営業部・業務部・商品部」のいずれかに配属されるか決まるオープンスタイル採用であったため、私は商品部に入るための猛烈アピールをしながら内定を手に入れた。
なお、入社後、商品部に入ることを目指しギラギラしていた私を思い出すと恥ずかしくて隠れたくなるくらいである。
ちなみに私が新卒で入社したこの会社は、絶対社長制の今でいうブラック企業であった。
この会社にいたのはたった3年3か月だったが、実に様々な経験をし普通の会社に10~15年いたくらいの経験をすることができた。
私の仕事の基礎を作ってくれたのはこのブラック企業であった。
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おわりに
さて、私の就活ストーリーいかがだったでしょうか。
そうそう!そうだった!と辛い就活を思い出す場面もあったのではないでしょうか。
新卒で正社員として3年3か月働いたのち、私は10年以上派遣社員として働き、複数の会社でいろんな部署を経験してきました。
複数の会社を経験して思うのですが、会社によって賃金や待遇だけでなく、仕事のレベルも違い、集まる人の人格も全く違います。
特に女性にとっては結婚しても残れるのか、産休育休は取りやすいのか、育休後にちゃんと戻れるのかは気になるところ。
色んな会社を経験する中、「新卒でどんな会社に就職するかはその後の人生に大きく左右するなー。最初の就活はちゃんとしたほうがいいなー。」とよく思ったものです。
だけど、過去の私のように就活でその後の人生がすべて決まるわけではなく、正社員になれなかったからと言って人としての価値がないわけではありません。
ましてや有名な企業に就職したらその人の価値や魅力が上がるのかと言えばそうでもありません。
就職している間は、会社のブランドで楽しい思いができるかもしれませんが、退職してしまえば何者でもなくなってしまうのです。
個人事業主として自分で仕事をするようになって思うのですが、一流と言われる企業に勤めていても自分に自信を持ちきれない人もたくさんいます。
そして、企業という守られた環境の中では実力を発揮できても、自分で価値を創造できない人もたくさんいます。
先が読めない現代では、「価値の創造」をし続けられる人になれるかが重要です。
そのためには、「言われたことを完璧にこなせる私」ではなく、「失敗してでも自分で考え何かを生み出せる私」になることが必要。
このCOJILabo.を通して、「失敗してでも自分で考え何かを生み出せる私」になれる長女が増えればと思っていつも記事を書いています。
COJILabo.編集長 長女研究家 櫻本稀子(さくらもときこ)
この記事を書いた人
- 1980年4月2日生まれ。スピリチュアル・ビューティーサロン代表。弟が生まれた3歳から「両親から愛されていない」と思い込み、長女をこじらせはじめる。だが、2015年に受講した「アデプトプログラム」をきっかけにたった2年半でこじらせた親子関係を修復。その経験から長女特有の「ネガティブパターン」に気がつく。このパターンを全ての長女が理解すれば「みんながもっと簡単に幸せになれる!」と思い、長女研究家として本サイトCOJILabo.にて長女が幸せになるコツを配信中。→詳しいプロフィールはこちら
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