<父の罵声が私の心を壊死させた>
多くの長女が、両親のどちらかとの関係をこじらせる。だがしかし、私は両親ともに厳しい家だったため「父と母の両方」との関係をこじらせていた。今回は父とのこじらせストーリーを紹介しよう。「お父さんが怖い」あなたにもそんな思いがある場合には、ぜひ読み進めていただきたい。独裁政治を行なうトリプルA型の父と私の戦いとはいかに!?
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目次
独裁政治を行うトリプルA型の父
父とのこじらせストーリーを紹介する前に、私の父がどんな人物だったのかお話ししよう。
「だった」と過去形を使ったが父は存命である。現在はずいぶん丸くなったので「だった」という表現にしてみた。
私の人格と才能の形成に重要な0歳から20歳までの間、父は花の30代~50代前半。
古い昭和の考え方の中に生き、パワーもありあまっていた若き日の父は私にとってはとんでもなく恐ろしい存在でしかなかった。
このころの父を表現するには鉄板ネタがある。
それが、「ナチスドイツばりの独裁政治」 「トリプルA型」だ。
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ナチスドイツばりの独裁政治に私の心は壊死していく
我が父は、いったん頭に血がのぼると手が付けられない。
たとえ、父の考えが間違っていたとしても私も母も弟も誰も何も言えないのだ。
父は、私たちに手をあげることは決してなかったが、カッとなると罵声を浴びせた。
「お前はお父さんの機嫌を損ねるのが得意だな」とか
「なんでそんなこともできないんだ」とか
「お父さんのDNAを継いでるはずなのにおかしい」とか
こんなことをよく言われ、私は深く傷ついていた。
心理学カウンセラーや子育てカウンセラーをしている人からすれば、驚きの発言であろう。
さらに怒り狂った父は、最終的には「嫌なら出ていけ!」という発言を繰り返した。
経済活動もできない子どもに向かってこの発言は虐待でしかない。
そんな頭に血が上ると手におえない父の驚き発言をあげればきりがないのだが、小さいころの私が1番嫌だったセリフはこれである。
「いじめをしたやつは死刑だ」
ニュースでいじめの問題が話題になると必ず父が言っていたセリフ。
このセリフからいかに父が強烈な人物であったことはご理解いただけるだろう。
父親のこの発言を聞いた娘の私は、たとえ学校でいじめられても絶対に父には言わないと心に決めるしかない。
この時点で父の知らない間に、私と父との関係は断たれたのだった。
反抗したら怒鳴られる、追い出されるがお決まりだったので、私は父の在り方を「恐怖政治」「独裁政治」と揶揄していた。
コレだけ罵声を浴びせる父も、機嫌がいいときは私に対して「大切な娘だよ」と言ってきたが、そんな言葉は信じることなどできず、私は愛されてないとしか思えずにいた。
むしろその落差が私にとっては苦しみでしかなかった。
そんな父と過ごす間、私の体は傷つくことはなかったが、私の心は父の罵声によりボロボロに傷ついて壊死していった。
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「トリプルA型」の父の恐怖
うちの父の血液型はA型なのだが、あまりにきれい好きなので私は「トリプルA型(AAA型)」と呼んでいる。
父の部屋は「ここはモデルルームですか?」といいたくなるくらい整理整頓されている。
ペンを1本借りて適当にも戻そうものなら、「今日ペンを使っただろう、ちゃんとキレイに戻せ」と言われる始末。
私もA型だが、ペン1本の配置が変わったからと言って気がつきもしない。
父が自分の部屋だけキレイにする趣味の方ならよかったのが、父はとにかく私が部屋を片付けないことにしょっちゅう腹を立てていた。
私たち姉弟は、自分だけの個室は与えられず、リビングから続く洋室を子ども部屋として使っていた。
これがさらなる不運を呼び起こすこととなる。
リビングから近い位置にあった私の学習机の上はいつも散らかっていた。
私はある程度ちらかしてから一気にまとめてキレイにするタイプである。
父は、使ったらすぐ戻すというのが当たり前のルールで、それができない私にイライラしていた。
互いの片でけるまでの許容時間があまりに違ったため、小・中学校時代はとにかく父から「机を片付けろ!」と怒鳴られてばかりであった。
20歳を過ぎてから知ったのだが、父は本気で私のことを「片付けられない病」なんだと思っていたらしい。
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3歳 おもらし事件
さて、独裁政治を行なうトリプルA型の父と過ごす中、さまざまな事件がまき起こり、私は父への憎悪をつのらせていく。
いろんな事件の中でも、30歳を過ぎても忘れられなかった「おもらし事件」について語ろう。
ある日の夜、リビングで母親とテレビを見ていた3歳の私は、トイレが我慢できなくなり急いでトイレへと向かおうとソファーから飛び降りた。
そんな私に向かって母が、部屋にいるお父さんを声をかけるように頼んできた。
こちらとしては、トイレに行きたくて必死でそんな余裕はない。
だけど母に頼まれたこともしっかりやらなきゃいけない!と少しパニック気味になる。
早くトイレに行きたい!そんな状態で父の部屋をノックした。
閉ざされた部屋の扉の前で何度もノックし、お母さんが呼んでいる旨を父に伝えるが、一向に父からの返事がない。
そうこうしているうちに3歳児の膀胱は限界を迎え、父の部屋の前でお漏らしをしてしまう。
さんざん呼びかけても出てこなかった父が、なんと私がおもらしをしてしまったタイミングで部屋から現れた。
何とも言えない最悪な状況である。
短気な父は、私のことを心配することもなく、怒り狂い、私に罵声を浴びせた。
そんな父に対し、「だってお父さんが出てこないんだもん!」という私の主張は全く通らない。
私に父を呼ぶよう依頼をした母でさえ、私をかばうことはなく一方的に私が罵声を浴びせられ怒られるだけだった。
なんて理不尽な親なんだというこの時の憎悪は、大人になってもたびたびリアルに思い出され、私の両親嫌い病をつのらせた。
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小2 ハチに刺される事件
父は人を信じない。
それが私にとっては腹立たしかったし、嫌いなところであった。
それを伝えるのにとっておきのエピソードが1つある。
あれは小学校2年生の冬。
学校に遅れまいと急いで支度をしていた私。
服を着替え、靴下をはいた瞬間、足に激痛がはしった。
「痛い!」あまりの痛さに靴下を投げ捨てそちらを見ると、全長4センチ以上の大きなハチが転がっていた。
なんと私が感じた激痛は靴下に潜り込んでいた、ハチに刺されたものだったのだ。
あまりの激痛と大きなハチを見た恐怖から小学校2年生の私の目には涙があふれた。
アキレス腱下を刺された私は、この状況を父に伝えようとボロボロと涙をながしながら、洗面所で身支度をしている父のもとにケンケンしながらかけよった。
ギャン泣きしながら「ハチ!ハチに刺された!」と父に訴え、刺されて膨れ上がった足を見せた。
ドライヤーで髪をブローしていた父は、怪訝な顔をしながらドライヤーを止め、「何?」と聞いてきた。
私はもう一度ハチに刺されたことを父に訴えが、そんな私に向かって父は信じられないセリフを返す。
「はぁ?何言ってるんだ。冬にハチがいるわけがない。」
もう、大ショックである。
娘が泣いて訴えているのに冬にハチがいるはずがないという常識が優先されたのだ。
「嘘じゃない、ハチが言いるからこっちにきて」と渋い顔をした父を、現場のリビングへ誘導する。
すると「ほんとだ!ハチだ!」と大声をあげ、本当にハチがいるとわかってから娘に対して「大丈夫か」と言ってきた。
もう最低である。
その後、私の手当てのために起きてきた母に対し私は、父が私の話を信じてくれなかったその態度について異議を申し立てた。
しかし父は、のんきに「いやー。まさか冬にハチがいるとは思わなくて、稀子は何を言ってるんだと思ったんだよ。ハハハ」といった具合だ。
「人の話を信じない」「娘を第一に心配しない」そんな父を私はますます憎らしく思い、やはり私は愛されていないのだと思うようになる。
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小4 ピアノの教科書投げつけ事件
私は5歳からピアノを習っていた。
習ったきっかけは、マンション内の引っ越しを家の玄関から興味深く眺めていた3歳の私が、グランドピアノがクレーンにつるされて運び込まれる様子をみたことがきっかけである。
自ら習いたいと願ったピアノだったが、始めて見るとなんとも練習がめんどくさい。
毎日毎日家でピアノの練習をするのが嫌で嫌で仕方がなかった。
私としては、なんとなく楽しく弾ければよかったのだが、厳しい両親は毎日ある程度の時間ピアノを練習することを義務づけた。
幼稚園から小学校低学年くらいまでは、渋々それに従って練習に励んだが、4年生くらいになるとさぼり心がでてくるもの。
その頃の私は練習をちょくちょくさぼって両親に怒られていた。
ちなみに私には弟がいるのだが、彼もピアノを習い始め、早い段階から練習をさぼっていた。
弟が練習をしたくないとごねた時、あの残酷な事件が起きたのだ。
練習をしたくないとごねる弟にブチ切れた父が、ピアノの上に並べていたピアノの教科書を手に取り、罵声とともに部屋の柱に向かって投げつけた。
なんと、こともあろうかその教科書は私のものだった。
柱にジャストミートした私の教科書は、打ちどころが悪く、表紙がびりびりと割けていた。
その光景を見た私は大泣き。
何で私のを投げるのか皆目理解できず、「なんで私のを投げたんだ!」というような言葉と共にギャーギャ―泣き叫んだ。
ご存知の通り、いったんキレたら手の付けられない父は、謝るなんてことはせずさっさと自分の部屋に戻っていった。
謝りもしない父を見て私の怒りは倍増する。
この事件が起こるまでも何度となく、弟のせいで私がとばっちりをくらうことが多くあり、そのたびに理不尽極まりない父のことを大嫌いになっていったが、この事件は特段記憶に残っている。
なお、このピアノ事件には、少し面白い話が続く。
表紙が割けた私のピアノの教科書は、翌日父の手によって修復されていた。
避けた部分にテープを貼り、可愛い包装紙でカバーをつくり、敗れた面が見えないようになっていたのだ。
ただ、「ごめんね」などという言葉は一切ない。
我が家の父が素直に謝ったことがあっただろうかと、今思い出そうとしても記憶にない。
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小4 痛恨のミス
素直に謝れない父には、唯一反省の色を見せる行動があった。
それは、自分がキレて気まずいと感じた後にはケーキを買ってくることである。
私はそれを「ごめんなさいケーキ」と勝手に呼んでいたのだが、ある日それを指摘したら、図星だったようでそれ以来ケーキを買ってこなくなった。
余計なことはいうものではないと大反省したのは、言うまでもない。
おわりに
さて、今回の「こうして私は父との関係をこじらせた。」はいかがだったでしょうか。
父は、手を上げるような暴力はありませんでしたが、本当に父の暴言は耳を疑いたくなるようなものがたくさんありました。
父が怖すぎた私は、20代の頃「お父さん」という言葉を聞くだけでも体が硬直し、友人から心配されるくらいになっていました。
私と同じように父親の暴言に恐怖した長女は多いのではないでしょうか。
人間の脳というのは、一次的な緊張やストレスには耐えられる構造でよい結果につながるのですが、毎日じわじわと長期的に続くストレスには耐えられないという構造になっています。
なので私のように長期的に怖い父親の元にいた長女はストレスのおかげで心や思考が正常に機能しなくなってしまうものなのです。
さらには、何度も何度も才能や人格を否定されるようなことを言われ続けるとセルフイメージも下がり、幸せで豊かな現実がつくれなくなっていきます。
だからこそ、大人になった今ケアが必要なのですね。
さて、現在占星術師でもある私は父がなぜあんなにもキレると手が付けられなかったのか理解することもできるようになりました。
父は、おひつじ座なのですが、その中でも頭に血がのぼりやすいタイプなのです。
占星術師として解説するなら、そのエネルギーを正しく使いこなせれば才能にも魅力にも強みにもなるのですが、それを分からずに暴走させるとただの迷惑でしかない。
太陽星座もしくは月星座が牡羊座の場合、必ず人より血の気が多く、それをコントロールできないと人を支配しようとしたり、いつもイライラしたりしてしまうのです。
自分のホロスコープを知って自分の才能を引き出したり有り余るパワーをコントロールするのは非常に大事になるのですね。
さてさて、今回は小学校までの父とのストーリーを紹介しましたが、その後の思春期に入りより一層私の心が敏感になる中学・高校時代、さらには大学時代には父と恋愛に関する事件がたびたび勃発します。
父は過敏な女子の取り扱いを完全に間違ったため、私の父への憎悪とこじらせは加速していくこととなります。
その話については、「【第5幕】中学時代、本気の恋に反対された私。父のこの態度にブチ切れた。」で語ってますので、ぜひご覧ください。
COJILabo.編集長 長女研究家 櫻本稀子(さくらもときこ)
この記事を書いた人

- 1980年4月2日生まれ。スピリチュアル・ビューティーサロン代表。弟が生まれた3歳から「両親から愛されていない」と思い込み、長女をこじらせはじめる。だが、2015年に受講した「アデプトプログラム」をきっかけにたった2年半でこじらせた親子関係を修復。その経験から長女特有の「ネガティブパターン」に気がつく。このパターンを全ての長女が理解すれば「みんながもっと簡単に幸せになれる!」と思い、長女研究家として本サイトCOJILabo.にて長女が幸せになるコツを配信中。→詳しいプロフィールはこちら
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